日銀が財政ファイナンスを実行しないと政府の予算編成ができない

今私たちはどのような立場に立たたされているのか?

「カレイドスコープのメルマガ」第153号によれば
パナマ文書、デジタル世界通貨、預金封鎖、ベイルイン、ジェイドヘルム・・・
これらが一つに収斂する世界。
その世界に、私たちは否応なしに仕向けられています。
果たして、世界中のどれほどの人々が気が付いているのでしょうか。
ロイターとスプートニクが、日本の近未来を暗示するような記事を掲載しました。
ロイターによれば日銀が財政ファイナンスを実行しないと政府の予算編成ができない
以下ロイターより転載
日銀、国債購入損失8兆円で限界 マイナス金利を拡大へ=岩田一政氏
 4月21日、岩田一政・日本経済研究センター理事長(元日銀副総裁)は、都内で講演し、日銀のとりえる政策選択肢として今後はマイナス金利拡大にならざるを得ないとの見解を示した。
背景として国債購入に伴う損失が既に8兆円超となり財務面から限界にきていることを挙げた。さらに、日銀による貸出(成長基盤融資)金利をマイナスとする選択肢もあり得るとした。

今後の日銀のとり得る政策について、黒田東彦総裁は、質・量・金利の3つの組み合わせを主張しているものの、岩田氏はこのうち量については「日銀が高い価格で国債を買うことで過去3年間で既に8兆円超の損失が生じている。これを償却するには1年で1兆円程度が必要となる。財務上の理由から、これ以上の量の拡大は難しい」と指摘した。そのため、「今後の主要な政策はマイナス金利の拡大にならざるを得ない」とした。

さらに「次の緩和策の可能性として、預金金利を引き下げることに加えて、日銀による成長基盤融資を現在の金利ゼロからマイナス金利をつけることで、金融機関の利ざや圧縮に対し、多少相殺するという政策を同時に実行するということもあり得る」と述べた。

岩田氏は、日本における自然利子率(成長率を加速も減速させない利子率)がマイナス0.7%程度と試算、「現状ではほぼゼロ%の市場の実質金利はこれに比べて高すぎるため、デフレに逆戻りしかねない」と指摘。日銀は「デフレ脱却に向けて金利をマイナス1%程度にする必要がある」との認識を示した。

さらに岩田氏は、国際通貨基金(IMF)によれば、マイナス金利幅が0.75─2%程度までなら、現金保有コストと見合って、大規模な現金逃避が起こることもないため、マイナス金利が有効に働くと述べた。

5月の主要7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議で利下げが通貨安を目的とせずデフレ脱却のためと他国に了解してもらうことが重要だと指摘した。

実際、円の実質実効レートでみると、過去平均と比べてさほど円高ではないとも指摘した。
(中川泉 編集:吉瀬邦彦)


以下スプートニクより転載
大規模な支払い不能危機の淵に立たされる日本経済

© Flickr/ Japanexperterna.se
日本
2016年04月16日 20:30短縮 URL

タチヤナ フロニ

23133625522

ブルームバーグ通信は、世界の価格変動(ボラティリティ)の中心は、徐々に中国から日本へと移りつつあると指摘した。経済学者や投資家達は、日本経済における大規模な危機を懸念している。巨額の公的債務を抑制し、「三本の矢」を推進力に極めて低い経済成長率を引き上げようとの安倍政権の4年に渡る試みは、どうやら失敗に終わったようだ。この事は、アベノミクスの破綻を意味するものではないのだろうか?


スプートニク日本のタチヤナ・フロニ記者は、ロシアの経済誌「エクスペルト」の分析専門家、セルゲイ・マヌコフ氏に意見を聞いた-

「元IMFの主任エコノミストで現在ワシントンのピーターソン国際経済研究所で働いているオリヴィエ・ブランチャード氏は、日本は今急速に、深刻な支払い能力危機に移行中だと見ている。またIMFや世界銀行といった金融組織やエコノミストの大部分も、日本経済に対するそうした否定的観測を口にしている。3年前、安倍首相は、日本を長く続く不況から脱却させると公約して政権の座に就いた。そして彼のアベノミクスといわれる経済改革が、実際、肯定的な効果を持っている事は、多くの人々に示された。日本の新たな奇跡とまで言われたものだ。しかし奇跡の期間は、大変短いものだった。今もますます多くのエコノミストが、外国人も日本人も含め、全体としてアベノミクスは、その破綻を示したと指摘するようになっている。

日本の2016年版「外交青書」:ロシアは重要かつ必要
アベノミクスの基礎に置かれたのは、円安だった。日本銀行は、絶えず数千億を日本経済につぎ込んだ。そうした強力な流動資産の流入は、東京の証券市場で時に、真の陶酔を呼び起こし、主要企業の株は相当上がり、86%という数字さえ記録した。当時は、日本の新たな奇跡だと語られたものだった。

しかし、人工的に作られたこのブームは、長くは続かなかった。今の日本銀行の主な夢は、インフレ率を2%にまで上げる事だ。そうした目的を持って今年1月、日銀はマイナス金利を導入し、皆をひどく驚かせた。この決定は、日銀内部の分裂を呼び起こした。マイナス金利導入に際しての投票では、5対4と支持派はかろうじて勝利した。この政策は、商業銀行の収益性を疑わしいものとし、様々な国々の市場下落を招いた。日銀が主な目的とした円安の代わりに、円の対ドルレートは思いもかけず7%も上がってしまった。しかし日銀指導部は、マイナス金利は、インフレ率が期待する2%にまで上がるまで据え置くと主張している。その際日銀は、今後国債を買ってゆくと発表した。そのため80兆円という途方もない資金を費やす考えだ。つまり重大な措置を講じているという事だ。しかし、それによって必要な成果は得られない。

客観的原因と並んで、純粋に日本的特殊性が、そこにはある。国民の高齢化、そして急速に進む労働人口の減少だ。人口動態学的予測によれば、日本の人口は、2060年までに8600万人にまで減る。つまり、今の人口の事実上三分の一が失われるという事だ。昨年第4四半期のGDPは、ほぼ1,5%減少した。国民の実質収入は、すでに4年連続で減っている。それゆえ日本人が、お金を消費するのを急がず、まさかの時のためにお金を貯蓄している事は驚くに値しない。経済学者らも、そうした形で日本人自身が、自国経済の成長にブレーキをかけているのだと捉えている。一方円高によって、経営者は、より用心深くなり、労働者の給与を上げる事に強く抵抗している。」

しかし安倍首相が、自分の政策を変更する事はないだろう。今年、経営陣と労働組合の間の交渉で、彼は、経営陣に対し、労働者の賃金を上げ、そうする事で国内に漂うデフレの雰囲気を壊すよう根気よく求めた。給与が上がれば、消費の伸びを助ける。そうなれば、日本が抱える巨額の債務を助けることになるというわけだ。ちなみに日本の債務は、およそ10兆5千億ドルで、対GDP比250%に近づいている。世界の先進国の中で、これだけ高い債務を抱えた国は他にない。

続きを読む http://jp.sputniknews.com/japan/20160416/1976564.html#ixzz48FmNPxyX
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布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。

国際派日本人養成講座より転載

No.752 日本における道理の伝統

<< 作成日時 : 2012/06/10 05:31 >>

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 布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。

■転送歓迎■ H24.06.10 ■ 40,811 Copies ■ 3,547,814Views■


■1.「日本へ行けば、人々は理性豊かである」

 1547年12月、キリスト教の東洋への布教のためにマレー半島のマラッカにやってきたフランシスコ・ザビエルは、日本人・池端彌次郎と出会う。彌次郎は武士であったが、商売の争いから殺人を犯してしまい、かねて交渉のあったポルトガル商人に頼んで、マラッカに逃れてきたのだった。

 自分の犯した罪に苦悩していた彌次郎は、そのポルトガル商人から、高徳の聖人ザビエルに会って、懺悔と安心の道を求めるが良いと勧められた。ザビエルは彌次郎と出会った印象を次のようにローマのイエズス会あてに報告している。(原文は正漢字、正仮名遣いだが、本稿では常用漢字、現代仮名遣いに改めさせていただく)

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 もし全ての日本人が彌次郎と同じように知識欲の旺盛な人々であるとすれば、日本人は新たに発見された諸地域の中で最高級の国民であると思われる。彌次郎は私の聖教講義に出席した後、信仰箇条のすべてを自分の国語で書き直した。彼は度々教会に来て祈祷を捧げ、それからいろいろと私に質問した。・・・[1,p185]

 日本に行ってきたポルトガル商人達は全員が私に言うのだが、私がもし日本へ行けば、人々は理性豊かであるから、インドの異教徒達を相手にして得るよりも遙かに多く、我らが主デウスに対する奉仕をなすことができようとの事だ。[1,p186]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この結果、ザビエルは「内心の深い喜びを以て日本に行く事を決心した」。


■2.「日本人は理性的だから、大部分がキリスト教徒になる」

 ザビエルは二人のイエズス会士と彌次郎を伴って、支那人の船に乗り、途中暴風雨に遭いながらも、53日の苦しい航海の後、1549年8月に彌次郎の故郷である鹿児島に上陸した。種子島に鉄砲が伝来したのがこの6年前、そして織田信長の桶狭間の戦いが11年後である。

 ザビエルは自ら日本の民衆と接して、自分の期待通りであった事を発見し、本国にあててこう報告している。[1,p193]

__________
 此の国は、霊的に豊かな収穫をもたらす肥沃な土地で、今までの処では、人々がキリスト信者になることを、不思議とは思っていないようです。国民は理性的な人間です。彼等は無知の故に、多くの誤謬の状態の中に住んでいるけれども、理性が彼等の間では大切にされています。・・・

 日本人は理性的な国民でありますから、その大部分がキリスト信者になることを、イエズス・キリストにかけて期待しています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ザビエルにとって、キリスト教こそが理性的な宗教であり、日本人はたまたまそれを知らないために、仏教や神道などの「誤謬の中に住んでいる」けれども、彼等が自ら持つ理性を発揮すれば、かならず大部分がキリスト教を理解し、信仰するようになるだろう、と期待したのである。


■3.「デウスは祖先に対して無慈悲である」

 しかし、ザビエルの期待は裏切られた。日本人の理性が足りなかったのではなく、理性が豊か過ぎて、キリスト教の教義の中にある不合理な一面を見過ごさなかったからである。京へ上る途中、山口で布教を行った際には、次のような質問がなされた。[1,p228]

__________
 山口の信者は、その洗礼の前に、デウスの全善(JOG注: 全能)に就いての重大な疑問に襲われた。それは、デウスは私達が来るまで、決して日本人に啓示をお与えにならなかったから、全善ではないということであった。

又私達の教えているように、デウスを礼拝しない者は、地獄に堕ちるとすれば、デウスは祖先に対して無慈悲である。何となれば、デウスは教について何も識らない祖先が、地獄に堕ちることを許したからである。
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 先祖思いの日本人は、先祖をほったらかして自分だけ天国に行こうなどとは思わなかった。しかし、ザビエル達の説く処によれば、先祖はデウスの教えを聞いていないから、天国に行けないという。

 デウスが全能なら、はるか太古の昔から日本にも現れて、我が祖先も救ったはずだろう。今頃、のこのこ日本に現れて、これから人々を救います、というのでは、全能ではありえない。

 しかもデウスが勝手に遅く登場したがために、それまでに亡くなった祖先は救われないというのでは、無慈悲きわまりないではないか、というのである。


■4.「若(も)しデウスが善なら、悪魔なぞ作る筈がない」

 また悪魔についても、日本人は次のように問いかけた。[1,p293]

__________
 彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信ずるが故に、創造主のことを認められないと言った。又、若(も)しデウスが善なら、そんな悪い者を作る筈がないというのである。

それに対して私達は、デウスはそれ等を皆善いものとして造ったが、彼等が自分勝手に悪くなったので、デウスは彼等を罰した。その罪は永劫に続くと答えた。

すると彼等は、デウスはそれ程に残酷に罰するなら憐れみのない者だ、しかも若しデウスが、私達の教の如く、人間を造ったことが本当なら、何故こんなに悪い悪魔がいて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 鋭い合理的な問いかけに、たじたじとなっているザビエルの姿が思い浮かぶ。

 ここで留意すべきは、ザビエルは19歳でパリ大学で哲学を学んだ当時の西洋社会での第一級の知識人であり、その彼の説くキリスト教の教義を、当時の日本人(それも学者僧侶など知識階級以外の一般人)が聞いてすぐに、こうした論理的なつっこみを仕掛けてきたことだ。当時の日本人は一般階級にいたるまで、鋭い理性を持っていたことが窺われる。

「日本人は理性的な国民でありますから、その大部分がキリスト信者になる」というザビエルの期待は裏切られた。「理性的な国民」は、合理的な装いの下に隠された「全能の神と悪魔」といった非合理性を見過ごさなかったのである。


■5.「近代的理性は鎌倉時代に始まった」

 以上、我が国にキリスト教が伝来した当時の光景を見たが、本稿の趣旨は、なぜ当時の日本人が、かくも合理性を備えていたのか、という点である。この点を歴史的に解明したのが、日本思想史の碩学、小堀桂一郎・東大名誉教授の大著『日本に於ける理性の傳統』[1]である。

 この著書では、我が国における近代的理性は鎌倉時代から始まったとして、慈円、明恵上人、道元などの著作が縦横に引かれており、さすがに「最後の帝大教授」と形容されるだけの博引旁証ぶりである。

 本稿では、その中でもわかりやすい一般民衆の逸話を中心に、我が祖先たちが、どのように理性を発揮してきたのかを見てみたい。

 鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という意味での封建社会が発達した。「封建主義」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、土地の私有を制度化するには、私有財産の所有権を互いが理解し、その権利を守るための法治制度の発達が必要であり、これらは近代社会に不可欠の基盤なのである。

 現代社会でもいまだに土地を国有化している近隣諸国もあるが、そういう国では政府の一片の通達で大規模工場も移転させられるような具合であって、およそ封建時代以前の有様と言うべきである。

 土地が私有化されていくと、当然、人々の間で、ある土地がどちらの所領か、という争いが起こる。その争いは将軍・源頼朝以来の幕府に持ち込まれていたが、それらの先例を、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が中心となって整理し、成文化したものが、1232年に編纂された『関東御成敗式目』である。


■6.「理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず」

『式目』の末尾には、この法体系の基本理念としての「道理」を明白に掲げている。

__________
 およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。[1,p83]

(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 現代の裁判官や検事・弁護士にもそのまま通用する言い分であろう。現代でも後進国においては、裁判は政府に強いコネを持つ方が勝つ、という事を良く耳にするが、これに比べれば800年も前にあくまで「道理」を中心に公正な裁判をしようとした先進性は驚くべきものがある。

 この『式目』は、徳川時代には寺子屋での子供の教科書として用いられていたというから、ここで述べられているような道理の重視が、庶民の間にまで定着していたであろう事は、想像に難くない。


■7.「これは当方の負けなり」

 泰時の道理の重視は、単に口先だけのことでも、また限られた為政者だけの思いだけでもなく、一般人にも広く浸透していた事を示す逸話がある。それは沙石(しゃせき)集という鎌倉時代中期の仏教説話集に収められている、泰時も登場する一話である。

 ある時、下総国(千葉県北部が主)の地頭と領家(荘園領主)との間でいさかいが生じ、両者の話し合いでは決着がつかなかったので、鎌倉幕府に裁定が持ち込まれた。

 北条泰時が代官となって、両者とじっくり問答を行った際、領家が肝心の道理を述べた時、地頭は手をはたと打って、泰時の方に向かって「これは当方の負けなり」と言った。同席した一同はわっと笑い出したが、泰時はうち頷いて、笑わずに言った。

__________
 立派な負けっぷりである。泰時は長い間、代官として裁定を行ってきたが、あきらかに道理で負けていると思われる側でも、なおも負けじと主張を続ける事はあっても、自分から負けたと言う人はいなかった。

 相手の方に道理があると分かったら、ただちに負けを認めたのは、返す返す立派な態度である。正直な人柄が見て取れる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、涙ぐんで褒めた。領家の方も、「今まで道理を理解していなかっただけで、故意ではない」として、6年分の未納を3年にまけてくれた。沙石集の作者は次のように、結論つけている。

__________
 されば、人は道理を知りて、正直なるべき物なり。咎を犯したる者も道理を知りて、我が僻事(ひがごと、間違い)と思いて正直に咎(とが)をあらわし、おそれつつしめば、その咎ゆるさるる事なり。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 裁判の席上、相手の方に道理があると分かった途端に、自らそれを認めるというのは、現代でも珍しいことだろう。当時でも珍しかったからこそ、物語に取り上げたのだろうが、こういう物語が世の中に広く読まれた、というその事実が、我が先人たちが道理を大切なものとして尊重してきた証左であろう。


■8.「和気藹々(あいあい)と議論を尽くせば、物事の道理が自ずから明らかになる」

『関東御成敗式目』は51箇条あるが、これは聖徳太子の憲法十七条を基礎に、天地人の三方に配して三倍としたと伝えられる。

 形式だけでなく、その内容においても通ずるところがある。「道理」に関連して、憲法十七条にはこういう一文がある。[a]

__________
然(しか)れども、上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則(すなは)ち事理自ずから通ふ。何事か成らざらむ。[4]

(地位や年齢の上下はあっても、和気藹々(あいあい)と議論を尽くせば、物事の道理が自ずから明らかになる。そうなれば、出来ない事などあろうか)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここでも「事理」という言葉で、「物事の道理」が重視されている。そして「道理」とは、議論や裁判、宗教論争など、人と人との対話の中から発見されるもののようだ。専制国家、独裁国家、全体主義国家では、独裁者が権力で自らの主張を押しつけてしまうから、他の人が「道理」を言ったところで、踏み潰されてしまう。

 西洋で合理主義が発達したのも、対話を主としたギリシア哲学や、ローマでの元老院での議論という伝統があったからであろう。そして、我が国も同様に、専制を嫌い、衆議を重んずる伝統があったからこそ、合理的思考が発達したのである。

 明治期に憲法、議会、裁判所、内閣、行政組織、会社組織などの近代的な仕組みが一挙に導入されて、短期間の間に国民生活に定着したのも、こうした合理的思考方法が長い歴史の間に、一般民衆の間にまで浸透していたからであろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_1/jog082.html

b. JOG(003) 悲しいメキシコ人
 日本がスペイン領になっていたら
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h9/jog003.htm

c. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h12/jog154.html

d. JOG(497) 冷戦、信長 対 キリシタン(上)~ 信長の危機感
 信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h19/jog497.html

e. JOG(498) 冷戦、信長 対 キリシタン(下)~ 信長の反撃
 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは日本の植民地化を諦めた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h19/jog498.html

f. JOG(435) 島原の乱 ~ 持ち込まれた宗教戦争の種子
 欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、日本の地で芽を出した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog435.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 小堀桂一郎『日本に於ける理性の傳統』★★、中公叢書、H19
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4120038629/japanontheg01-22/



国連本部に翻った日の丸 ~ 重光葵と国連加盟

■■ Japan On the Globe(915) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

国史百景(16): 国連本部に翻った日の丸
~ 重光葵と国連加盟

 重光葵は、日本の国連加盟を実現するために、残り少ない余命を捧げた。
■転送歓迎■ H27.08.30 ■ 44,669 Copies ■ 4,067,081Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/


■1.国連総会議場にて

 1956(昭和31)年12月18日朝、ニューヨークは晴天で、凍てつく寒さだった。イーストリバー沿いのガラス張りの39階建ての国連本部ビル、その横の薄いベージュ色の平たい箱形の建物が国連総会議場だった。

 重光葵(しげみつ・まもる)外相はダブルの背広に蝶ネクタイ、オーバーコートに中折れ帽をかぶって、大きなガラス張りのドアを押し明け、総会場に入った。中は暖房が効いて温かい。随員たちと和服姿の娘、華子が後に続く。

 高い天井の下の広大な空間に、びっしりと机が並び、世界各国の代表団が着席していた。重光は議場内の席に案内された。重光が着席するのを待って、51カ国もの共同提案による日本の国連加盟案が提出され、全回一致で承認された。議長が「日本の国際連合への加盟が決定しました」と宣言し、割れるような拍手が湧いた。

 スピーチの指名を受けた重光が立ち上がる。右足が義足のため、杖をつき、足を引きずりながら、演壇に近づく。右足を失ったのは、昭和7(1932)年、中華民国への公使時代に、上海での天長節祝賀会で朝鮮人テロリストに爆弾を投げらたからだった。[a,b]

 演壇は半円形で、4段の階段がぐるりと取り囲んでいた。その階段を、重光は一段一段、昇っていった。


■2.「君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい」

 国際連合への加盟は、亡き松岡洋右(ようすけ)が死の直前に、巣鴨刑務所で重光に頼んだことだった。この時、重光も戦犯容疑者として、巣鴨にいた。

 一貫して戦争を避けようと努力した重光を戦犯容疑者として逮捕したのは、ソ連の仕業だった。かつて外務次官の頃に、一様に共産化を恐れる欧米列強に対して防共協定を提案したことがあり、それを恨まれていたのである。

 松岡は、特別に重光との面談を依頼し、3分間のみ英語で話すという条件で許された。車椅子の松岡はこう語った。

__________
 君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい。僕が席を蹴って立った国際社会に日本を戻してほしいのだ。どうか、君の手で、国際社会復帰を、果たしてくれ。この思いを、君に託さなければ、僕は死んでも死にきれない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 鋭さを失った松岡の目に涙が光っていた。

「僕が席を蹴って立った国際社会」とは、松岡が1933(昭和8)年2月に、国際連盟総会で満洲国に関するリットン調査団報告書が採択された際に、席を立ったことである。これが契機となって、日本は国際連盟から脱退した。

 松岡の国際連盟総会退場は、国民から喝采を浴びたが、実は本意ではなかった。イギリスの代表団は、非公式に松岡に提案してきていた。「満洲での日本の利権を認めるから、いちおうリットンの報告を汲んで、顧問団を受け入れろ。その顧問団は日本人を主体にする」というのだ。

 松岡は「この提案を受け入れるしかない」と東京に打電したが、単なる口約束だと一笑に付されてしまった。「このままでは連盟による経済制裁が待っている」と再度、打電したら、その返事は「ならば脱退してしまえ」という指示だった。

 松岡は国際連盟脱退を深く悔やんでいて、重松に今生の頼みを託したのである。


■3.「私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

 東京裁判では禁固7年の刑を受けたが、4年半の拘留の後、昭和25(1950)年11月21日に仮釈放された。64歳になっていた。

 この年、日本は国連加盟を申請していたが、ソ連が拒否権を発動した。常任理事国の1国でも拒否すれば、加盟は認められない。ドイツでも朝鮮半島でも、アメリカとソ連の冷戦が激化しており、日本が国連に加盟すると、アメリカの発言力が増すことをソ連は嫌ったのだ。

 昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣が誕生すると、重光は9年ぶりに外務大臣に返り咲いた。まず注目したのは、インドネシアのバンドンで開かれるバンドン会議だった。アジア、アフリカの有色人種の国際サミットで、重光は腹心の加瀬俊一を送って、各国の日本加盟への支持をとりつけた。

 次に重光は国連本部に出向いて、総会議場のラウンジで、レセプションを主催した。飲み物を片手に、和やかな雰囲気の中で、重光は国連事務総長や各国代表に、日本の加盟支持を訴えた。

 3ヶ月後、国連の理事会で、日本の加盟に関する二度目の審議が行われたが、またもやソ連の反対で否決された。

 ソ連はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約を拒否した。日本の国民も、日ソ中立条約を一方的に破って、満洲で日本の居留民を襲い、日本将兵をシベリアに抑留したソ連を嫌っていた。しかしソ連の反対を覆さなければ、国連加盟は望めない。重光はソ連との国交正常化に取り組んだ。

 昭和31(1956)年7月29日、重光はモスクワの空港に降り立った。ソ連の外相やフルシチョフ第一書記とも会談したが、北方領土問題については、取りつく島がなかった。ここはソ連案を呑んで、領土問題を棚上げして国交正常化するしかない、と判断したが、日本政府も譲らない。重光は交渉を決裂させて帰国した。交渉失敗の批判は聞き流した。

 その後、駐日ソ連大使と綿密な事前交渉を経て、妥結が可能という手応えを掴んでから、鳩山首相をモスクワに送り出した。ソ連は重光には良い印象を持っていなかったからだ。

 鳩山首相は「せっかく、ここまで進めておいて、最後の仕上げをしないと、君が失敗して放り出したような印象を国民に与えるぞ」と言う首相に、重光は笑って「何と思われようと、かまいません。私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

 10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印し、国交正常化を成功させた。新聞は、鳩山の成果と書き立てた。


■4.「たった今、可決されました」

 昭和31年12月12日の夜、重光は外務省の大臣執務室に泊まり込んだ。この日、ニューヨークの国連本部で、安全保障理事会が開かれ、日本加盟に関する採択がなされる予定だった。結果が出次第、ニューヨークの日本領事館が国際電話を入れることになっていた。

 スチーム暖房は夜間は切られてしまい、各人はオーバーコートを着込み、持ち込んだガスストーブで暖をとりながら、寒さしのぎに日本酒をちびちびやって、ひたすら電話を待っていた。

 朝5時、現地はもう夕方だ。遅すぎる。何か問題が起きたのではないかと、不安が心をよぎる。しかし、可決するまで、何度でも全力を尽くすしかない。それが自分に与えられた最後の使命だと覚悟した。

 その時、机の上の黒電話がなった。雑音とともに、興奮気味の声が聞こえた。「たった今、可決されました。日本の国連加盟が決まりました」

 重光が親指と人差し指でOKのサインを出すと、職員たちから大歓声があがった。総会での承認は12月18日となり、その日のうちに重光が国連総会の日本代表と決まった。


■5.国連本部ビルに翻る日の丸

 12月18日、重光は国連総会議場の演壇に立って、スピーチを始めた。訥々(とつとつ)とした言葉で、まず加盟承認の礼を述べた。そして冷戦下の国際情勢に言及し、今なお世界各地で紛争が続く中、戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく意思がある、と語り、こう締めくくった。

__________
 今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚しています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 席に戻る重光に、あちこちから「加盟、おめでとう」「心からお祝いする」と声がかかった。重光は笑顔で礼を言いながら、席に戻った。

 すると机の上には、ほかの79カ国と同様に、黒地に金文字で国名を刻んだ木製のプレートが置いてあった。「JAPAN」の文字が誇らしげに輝いている。まさに日本が国際社会に復帰した象徴のように見えて、重光は感動した。

 総会が終わると、日本代表団は総会議場の前庭に出た。そこには横一列に全加盟国の国旗が掲揚されている。一本のポールの細紐に日の丸が結ばれた。そして日本代表団の目の前で、日の丸はするすると上がっていく。

 冬の青空と39階建ての国連本部ビルを背景に、色とりどりの各国国旗に並んでいる。その中に、白地に赤丸の美しい日本国旗が翻(ひるがえ)っていた。その時の光景を、重光は次のような歌に詠んだ。

 霧は晴れ国連の塔は輝きて高くかかげし日の丸の旗


■6.「あなたはシゲミツさんですね」

 そこに浅黒いアジア人が、インドネシアの代表だと言って、握手を求めてきた。「私はディアンスワリと言います。あなたはシゲミツさんですね。私は、あなたのことを知っています」

 重光の記憶にはない人物だった。ディアンスワリは破顔して続けた。

__________
 会うのは初めてです。2回目の大東亜会議の時に、私は代表団のひとりとして日本に行ったのです。あなたは、もう東京にはいませんでしが、大東亜会議の発案者がシゲミツといって、脚にハンディキャップを持つ人だと聞いて、私は覚えていました。[1,p325]
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 大東亜会議とは、重光が発案して、大東亜戦争中の昭和18(1943)年末に東京で開かれたアジア初のサミットであった。満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府が集まり、各国の独立を尊重し、人種差別撤廃に貢献するよう共同宣言を出したのだった。


■7.インドネシアの感謝

 2回目の大東亜会議に、インドネシアは独立前だったが、代表団を送ってきた。その時は重光は外相の職を辞して、日光に疎開していた。

__________
 お会いできて光栄です。インドネシアが独立戦争を戦い抜けたのは、大東亜会議のおかげです。あの時、私たちは本当に励まされました。私たちだって頑張れば、フィリピンやビルマのように独立できるのだと。

 私たちがインドネシアでバンドン会議を開いたのも、大東亜会議の志を引き継ぎたかったからです。

 インドネシアには、今でも日本人に感謝している人が大勢います。日本はオランダからの独立に手を貸してくれたし[d]、インドネシアの子供たちのために学校を作り、若者たちには戦い方を教えてくれました[e]。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「独立に手を貸した」とは、日本軍の降伏後、再びやって来たオランダ軍に対して独立戦争が始まり、千人とも2千人とも言われる日本軍将兵が現地に残って、インドネシア人とともに戦ったことを指す。[d]

 アジアの独立に命をかけて力を貸した日本兵がいたことに、重光は心打たれ、もう一度日の丸を仰ぎ見た。


■8.国連総会場での黙とう

 重光の渡米中に、鳩山内閣は総辞職し、重光も外相の職を失った。鳩山は重光に「国連の件は、よくやってくれた」と感謝しつつも、この点を詫びた。だが、重光は笑って、首を横に振った。

__________
 かまいません。私は政界に未練はないんです。私が巣鴨を出所してから、政治の世界に入ったのは、ひとえに日本を国連に加盟させるためでした。・・・もう心残りはないのです。[1,p331]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 年が明けた1月26日、重光は湯河原の山荘で、狭心症の発作により69歳の生涯を閉じた。

 死の2日後、ニューヨークの国連総会場で、総会の冒頭、議長がマイクを通して伝えた。「先月、ここで日本代表としてスピーチをしたマモル・シゲミツが、日本で亡くなりました。」

 加盟演説からわずか39日後の死に、誰もが驚き、どよめきが広がった。議長は続けた。「彼は生前、日本の国連加盟に、力を尽くしました。よって、ここに黙とうを捧げたいと思います。」

 全員が座席から立ち上がった。議長の「黙とう」の合図で、世界80カ国の代表たちが、静かな祈りを捧げた。

 この黙とうを提案したのは、インドネシア代表団だった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(519) 重光葵(上) ~ 大御心を体した外交官
 昭和天皇の大御心を体して、重光葵は中国・アジア諸国との親善友好と独立支援の外交を展開した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog519.html

b. JOG(520) 重光葵(下) ~ 大御心を体した外交官
 終戦工作、降伏文書調印、占領軍との交渉、戦犯裁判と、重光の苦闘は続く。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog520.html

c. JOG(338) 338 大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h16/jog338.html

d. JOG(036) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
 多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog036.html

e. JOG(193) インドネシアの夜明け
 インドネシア独立を担った人々が語る日本人との心の交流。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog193.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 植松三十里『調印の階段』★★★、PHP文芸文庫、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569764185/japanontheg01-22/

戦後70年を迎えて(談話)  生活の党と山本太郎となかまたち 代表 小沢一郎

戦争責任が国民が追及せず、官僚の無謬性がまかり通る日本、これからの日本を構築
するには、今しかないと考えられる。

戦後70年を迎えて(談話)  生活の党と山本太郎となかまたち 代表 小沢一郎を転載
http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/653.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 8 月 15 日 01:10:06: igsppGRN/E9PQ

戦後70年を迎えて(談話)
http://www.seikatsu1.jp/activity/declaration/20150815.html
2015年8月15日 生活の党と山本太郎となかまたち


生活の党と山本太郎となかまたち
代表 小沢一郎

戦後70年という節目を迎えるにあたり、先の大戦において犠牲となられた内外のすべての人々に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

戦後70年を迎えた今も、日本は政治、経済、社会のあらゆる面において、まだ戦後を脱し切れていません。これは「戦後」の前提となる「戦前」、特に昭和史についての検証と認識が全くなされないまま今日に至っているからだと思います。

私たちは戦前の歴史的事実を冷静に見つめ、謝るべきは謝り、正すべきは正すべきだと思います。その上で、将来に向けてアジアの国々がお互いに力を合わせてやっていこうと呼びかけていくべきです。歴史ときちんと正面から向き合おうとしないから、世界各国、特に隣国の中国や韓国から歴史問題を常に蒸し返されることになるのです。

私は愛国者の一人だと自認していますが、軍事裁判という形を取って懲罰を科す手法がよいかどうかは別として、日本の戦争指導者たちがアジアの隣人に大変な苦痛と被害を与え、また自国民の多くの命と多大な財産を失わせたのは紛れもない事実です。連合国側に裁かれるまでもなく、あんなばかげた戦争を指導した当時の政治家や軍人たちは、自ら責任を取るのが当たり前です。

指導者たる者は、指揮を誤った時には自ら潔く責任を取らなければいけません。日本は8月15日を終戦記念日と言い続けてきましたが、事実は敗戦記念日です。誰も責任を取らないまやかしのナショナリズムではなく、70年前の「敗戦」をしっかりと受け止めて戦後をスタートさせ、新しい国づくりをしていかないと、日本はまた同じ過ちを繰り返すことになります。

日本は戦後、アメリカ占領軍の下で形の上での民主主義が導入されました。そして、アメリカから与えられるままに、全てを惰性で曖昧なままにして70年間を過ごしてきました。

国民一人ひとりが第二次世界大戦を自分の問題として捉えず、自らの意思で戦前の日本に向き合い、検証し、考え、そして民主主義とは何かという結論を導き出す作業を怠ってきたのです。その結果、戦後70年を迎えても、日本は依然として民主主義を本当に理解している国になれないでいます。

昭和の初めには大飢饉があり、農村では身売りしなくては家族が生活できないという現象が日本のあちこちで見られました。また、貧しい農村の人たちは徴兵制で兵役に就きました。

そうした世の中で、「財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を思う心なし♪」と『昭和維新の歌』で唄われたように、「日本の世の中はおかしい。誰も国のことを考えていない」と青年将校が決起して5.15事件や2.26事件という軍事的クーデターが起きたのです。

更に日本の経済的困窮に拍車をかけたのが、1929年のウォール街の株価大暴落に始まった世界恐慌でした。結局、これに日本は対処できず、軍事的な拡大で戦争景気をあおるしか方法がなく、最終的により大きな悲劇へと突入していきました。

私は5.15事件や2.26事件を政治的に肯定するつもりは全くありませんが、今の社会構造は当時と非常に似てきていると思います。現在はまだ非正規社員でも何とか食べていけますが、ひとたび世界規模の経済恐慌に襲われたら、国民は相当混乱に陥るはずです。

そういう時でも、日本人が自立していて、日本に本当の民主主義がきちんと根付いていれば、皆で知恵を出して合って、何とか困難な状況を解決していく方策を思いつくでしょう。しかし、民主主義の土壌がなければ、5.15事件や2.26事件の時のように、「今の政党政治はだめだ」「民主主義は無力だ」ということで、国民が極端な行動に走ることもあるかもしれません。私は戦後70年の節目の今年こそ、国民一人ひとりが本当に民主主義を身につけるべき年ではないかと思っています。

そして、日本に議会制民主主義を定着させ、国民が一人ひとり自分の頭で考え、投票し、自分たちの政権をつくる。自分たちが選んだ政権がおかしいとなれば、もう一方の政権を選び直す。そういう仕組みを確立する中で、政党も国民もお互いに力を合わせていけば、今後どんなことが起きようとも、日本はそれを乗り越えていくことができると思います。

私は特に最近、一日も早くそういう日本にしなければ危ないと強い危機感を抱いています。戦後70年を機に日本に本当の民主主義を根付かせ、アジアの範となるような国になることに、国民の皆さまと一緒に全力で取り組んで参りたいと思います。

地球史探訪: 海洋国家の衰亡への道

地球史探訪: 海洋国家の衰亡への道
~ 月尾嘉雄『日本が世界地図から消滅しないための戦略』を読む
■■ Japan On the Globe(902) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■■ H27.05.31 ■の転載です、

カルタゴ、ベネチア、オランダに見る海洋国家の衰亡への道。
■1.「日本という国家が消滅することはないという幼児のような楽観」

『日本が世界地図から消滅しないための戦略』というショッキングなタイトルの新刊が出た。著者の月尾嘉雄(つきお・よしお)東大名誉教授はもともとは建築学が専攻だが、最近は地球環境問題やメディア政策など幅広い分野で発信をされている。

 この本の前書きは次のような印象的な一節で始まる。

__________
 国旗掲揚と国歌斉唱に異論のある人々が日本に増加しているようであるが、それをしたくてもできない民族の苦痛を想像してみれば、そのような異論が愚論であることが容易に理解できるはずである。それは日本という国家が消滅することはないという幼児のような楽観を根底とする幻想でしかない。[1,p1]
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 チベットやウイグルなど、自らの国家を失い、少数民族として圧政に苦しんでいる民族は少なくない。第二次大戦後に消滅した国家は約180にもなるという。


■2.消滅した古代海洋国家カルタゴ

 我が国と同様の海洋国家で、長く栄えながら滅んだ国が歴史上、いくつもある。

 その一つ、カルタゴは、北アフリカの地中海沿岸、現在のチュニジアの近辺で栄えた古代海洋国家である。紀元前814年に建国されたという伝説を持ち、紀元前6世紀から西地中海の海運交易を握り、エジプトからモロッコ、さらには現在のスペインのあたりまで領土を広げていった。

 しかし、イタリア半島から発展したローマと紀元前264年から146年までの120余年間に3度も大きな戦いを繰り広げ、一時はハンニバル将軍が象の一群を率いてアルプスを越えてイタリア半島にまで攻め込んだが、最終的には敗北した。

 ローマは通常は「敗者さえも同化する」寛大な政策をとって発展したのだが、ことカルタゴに対しては特別で、1世紀以上の度重なる戦いの報復として、カルタゴ市民を虐殺し、都市はすべて破壊した。カルタゴは地上から消滅し、その遺跡は19世紀まで発見されなかった。


■3.滅亡の第1の要因:傭兵

 カルタゴが消滅したのはローマとの戦いに敗れたからであるが、実際にハンニバルのイタリア半島侵攻ではローマ征服の一歩手前までいきながら、最終的にはなぜローマに滅ぼされたのか。

 その理由として月尾氏が最初に挙げているのが、傭兵に依存したことである。海洋国家であるから海軍は自国民中心で構成されていたが、陸軍は大半が傭兵であった。傭兵の目的は金銭であり、カルタゴのために命をかけるという志はない。

 それに比してローマは当時は共和国であり、市民は祖国のために、子孫のために、命をかけて戦うことを名誉と考えていた。いかに名将ハンニバルが何年か活躍しても、1世紀以上も戦い続ければ当然この違いが出てくる。

 傭兵が頼りにならない事は、その後の歴史で何度も実証されている。たとえば、ロシアは日露戦争で当時属領として支配していたポーランド人をロシア軍に含めて送り込んだ。日本軍はポーランドの独立運動と連携して、ポーランド兵の脱走工作を行い、投降したポーランド兵数千人を松山の収容所で厚遇した。[a]

 対する日本兵はすべて国民兵であり、家族のため、国家の独立維持のために命を捧げることを厭わなかった。[b]

 大東亜戦争でも、日本陸軍は開戦後わずか2ヶ月でマレー半島のイギリス軍を駆逐してシンガポールを占領したが、その成功要因の一つに英軍10万の半分を占めるインド兵に呼びかけて、「インド独立のために一緒に戦おう」と呼びかけたことがある。ここで結集したインド将兵たちが、現在の「インド国民軍」の中核となった。[c]

 いくら経済的に繁栄しても、国家の独立を守るのは自前の防衛力である。金で雇った傭兵では、いくら優れた将軍や武器を備えていても、長期的に国家を守る真の防衛力にはならない。


■4.滅亡の第2の要因:経済史上主義

 敗戦の第二の原因が経済至上主義である。月尾氏は次の史家の言葉を引用している。

「カルタゴの歴史は文明の浅薄さと脆弱さを示している。彼らは富の獲得だけに血道をあげ、政治的、文化的、倫理的な進歩を目指す努力をしなかった」(J・トゥーテイン)

 目先の利益にだけに目を奪われていては、日ごろから防衛のための備えをすることもおろそかにされる。青少年には国家公共のために働くことを名誉とみなす倫理教育もできなかったろう。

 そもそも豊かな文化伝統なしに経済至上主義の中で育てられた青少年には、祖国のために尽くし、祖国の危機には立ち上がる祖国愛も育たなかっただろう。


■5.滅亡の第3の要因:ローマの敵意に対する鈍感さ

 滅亡の第三の原因として挙げられているのが、ローマの敵意に対する鈍感さである。

 第一次ポエニ戦争(紀元前264~241年)の敗戦では広大な領土放棄以外に、年間の農業生産に匹敵する賠償金を24年に渡って支払うこと、さらに第二次ポエニ戦争(紀元前149~201年)では、同程度の賠償金を50年間支払い続けることとされたが、カルタゴは、その通商での経済力でいずれも早めに完済してしまう。

 それほどの経済力を持ったカルタゴを危険視して、ローマの政治家たちはカルタゴを滅亡させるべきと決心する。

__________
 第二次ポエニ戦争での敗戦にもかかわらず、その後も発展しているカルタゴを脅威とする人々がローマに増加していくが、その中心にあったのがローマの政治家マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)である。第二次ポエニ戦争に従軍して敗走した経験もあり、カルタゴへの敵愾心に満ちていた政治家であった。

 カトはカルタゴから輸送されてきた見事なイチジクを聴衆に見せ、このような立派な農産物を生産する国がローマから三日の航海の距離にあると演説し、その最後を「デレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴを殲せんめつ滅すべし)」と締めくくっていた。この繰返しが次第にローマ市民に浸透し、戦争の気運が高まっていった。これが第三の教訓である。[1,p31]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ローマはカルタゴに、地中海に面した首都を捨て、内陸部に遷都せよ、という無理難題を要求して、ついに3度目の戦争に追い込む。そしてカルタゴを破った後は、その都市を跡形もなく破壊し、住民を虐殺するという、敗者に対して寛容なローマにしては珍しく残虐な措置をとったのも、こういう反カルタゴ感情がゆえであろう。

 不思議なのは、カルタゴがこういうローマの敵意に対して、鈍感だったことである。経済至上主義で国の安全に無頓着であれば、他国の脅威に対しても、敏感にはなれなかったのだろう。


■6.ベネチアの繁栄と衰亡

 カルタゴと同様に、地中海での通商を握って、長期間、栄えながら滅んだのがベネチアである。海上に浮かぶ小さな人口島を本拠地として、697年の初代元首就任から1797年にナポレオンに征服されるまで、実に1,100年間も独立を維持した[a]。優れた造船技術を武器に、最盛期には地中海最大の海洋国家として栄華を誇った。

 ベネチアについては本誌104号[e]で紹介したので、ここでは繰り返さないが、そこで強調したのは、発展の原動力となったのが貴族も平民も国家に尽くそうという強い同胞感だった事だ。この力によって、人口10倍もの大国トルコと250年間も戦い抜いたのは、カルタゴとは大きく異なる点である。

 しかし、最後には衰退し、ナポレオンに屈服するのだが、そこでの要因として、月尾氏は以下の3つを挙げている。

 第1は技術革新への乗り遅れ。15世紀にポルトガルで3本の帆柱を備えたキャラベル船が開発され、コロンブスのアメリカ大陸到達などの大航海時代が始まった。この船は造船単価が3.5倍にも跳ね上がるが、ベネチアは造船予算を1.5倍にしか増やさなかった。当然、保有する隻数は半分以下となり、海軍力も、交易力も大きく低下した。

 第2はアジアとの交易で、アフリカの希望峰周りの航路が開拓され、ポルトガルやスペインなどの大西洋に面した港湾都市が交易の中心となったこと。従来の東地中海から中近東を通る陸上ルートは危険で、コストも高いので廃れてしまった。

 第3に、国民の通商意欲の減退と、それを反映した人口の減少。海に向かう進取の気風が失われ、ベネチアの対岸の大陸部分に引き込むようになった。守りの生活に入ると、子どもの増加が財産の細分化につながるため、貴族の家庭で独身比率が高まっていった。16世紀の51%から、17世紀に60%、18世紀には66%と上昇していった。

__________
 これは肉体的な精力が減退したというよりは、精神的な意欲の衰退と理解すべき現象である。一八世紀末のナポレオンの恫喝(どうかつ)に戦時問題首脳会議も大評議会も弱腰で右往左往し、簡単に屈服した下地は、二〇〇年近い社会と国民の性質変化によって出来上がっていたということになる。[1,p40]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■7.オランダの海洋覇権がいかにイギリスに奪われたのか

 月尾氏の著書にはないが、弊誌で紹介したオランダの盛衰も関連するので、簡単に触れておこう。

 大英帝国が築かれる前に、オランダはアフリカの希望峰から、セイロン、ジャカルタ、広東、そして長崎の出島に至るまで植民地や通商拠点を置き、17世紀の世界貿易を握っていた。

 オーストラリア大陸はオランダ人が発見し、オランダのホラント州から「ニューホラント」と名付けられていた。ニュージーランドは、同様にゼーラント州から付けられた名前がそのまま残っている。アメリカのニューヨークは、もとはニューアムステルダムだった。

 このオランダの海洋帝国は、その後、ほとんどイギリスに奪われ、大英帝国として「上書き」されてしまう。

 かつてオランダはスペイン帝国の一領地だったが、自由と独立を求めて同盟国イギリスと共に80年戦争を戦い抜く。戦争の途中、オランダの商人たちが実権を握ると、彼らは金はかかるが利益の少ない地上戦闘はイギリスに任せ、自らは海洋権益の拡大を目指した。こうしてオランダは一大海洋帝国を築き上げた。

 しかし、このオランダの姿勢は、イギリスの反感を買った。イギリスの当時の重商主義者トーマス・マンはこう語っている。

__________
 オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実をわれわれからむしり取っている間、われわれはオランダの防衛のために血を流しているのである。[2,p219]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 1648年にスペインとの講和が成立するや、わずか4年後には英蘭戦争が始まっている。その最中でもオランダ商人の中には、イギリスに軍艦用資材を売って大儲けする輩(やから)までいて、そんな状態ではオランダは勝てるはずもなかった。こうしてオランダの海洋覇権は次々とイギリスに奪われ、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンに移ったのである。


■8.日本が世界地図から消滅しないために

 カルタゴ、ベネチア、オランダと、一時は海洋大国として隆盛を誇りながら、その後、滅亡ないし衰退した国家を見てきた。

 これらの国々が発展する過程に共通して見てとれるのは、国民が経済発展を目指して自由に励む姿である。国民が自由に自らの利益を追求する時、個人の創意工夫によって新しい技術が生まれ、新たな航路が切り開かれ、交易が始まる。その活動が海洋大国を築く。

 しかし、いざ戦争となると、経済力とは別次元の力が必要となる。カルタゴの例で見たように金で雇った傭兵では、命を懸けてまで国を守ってはくれない。自分の家族、郷土、国家を自らの生命を犠牲にしても守ろうとする祖国愛を持った国民が必要なのである。経済至上主義では、国民一人ひとりが自分の利益を追求するだけで、そのような祖国愛は生まれない。

 各自が自分の利益だけしか眼中になければ、他国が敵意を燃やしていても気がつかない。カルタゴがローマの敵意に気がつかず、オランダがイギリスの怒りを買ったのも、経済至上主義の故だろう。祖国を守りたいという姿勢があってこそ、敵国や同盟国の動向・心理にも注意を払うようになる。

 また、経済至上主義では、ある程度の豊かさを達成してしまうと、それに満足してしまう。ベネチアのように結婚して子孫を作るよりも、独身のまま今の生活を楽しんだ方が良いと考える。子孫のために、何とか新たな繁栄の道を探ろうという志を持たなくなる。

 カルタゴ、ベネチア、オランダの歴史は、現代日本に二つの道を示している。一つは、経済至上主義で高度成長を遂げた現状で満足してしまって、十分な防衛努力もせず、近隣諸国の敵意や同盟国との連帯に注意を払わずに、少子化と経済停滞の道を歩むか。この道では、いざ敵国に攻め込まれたら、滅亡は必至だ。

 第二の道は、祖国愛を蘇らせ、自らの国は自ら守るという気概を奮い起こし、防衛の備えを怠らず、子孫のために新たな精神的、経済的発展を志す。

 日本が世界地図から消滅しないための岐路に我々は立っている。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(323) 日本・ポーランド友好小史
 遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も続いてきた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog323.html

b. JOG(048) 「公」と「私」と
 私情を吐露しつつ公の為に立上がった日露戦争当時の国民
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog048.html

c. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)~ シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog508.html

d. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)~ デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog509.html

e. JOG(104)ヴェネツィア
 人工島の上に作られた自由と平等の共同体。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog104.html

f. JOG(115)オランダ盛衰小史
 なぜオランダは「大英帝国」になり損ねたのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog115.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 月尾嘉男『日本が世界地図から消滅しないための戦略』★★★、致知出版社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4800910684/japanontheg01-22/

2. 岡崎久彦『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』★★★、文春文庫、H11
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4167362031/japanontheg01-22/




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