南シナ海でのベトナムと中国の艦船衝突の背景

地政学を英国で学んだより転載

南シナ海でのベトナムと中国の艦船衝突の背景


今日の横浜北部はとくに午後よく晴れました。

とうとう中国とベトナムの船が南シナ海で衝突しました。その背景の一端を知るために、とりあえず拙訳ルトワックの『自滅する中国』から参考になりそうな部分を抜き出しておきます。

下の引用は第15章からです。

===

すでに述べたように、中国の近隣諸国との問題は、(中国自身が経験した可能性のある)傲慢な発言や差し出がましい行為だけが原因ではないし、未解決の領土紛争に限られるものでもない。

このような問題は、むしろ中国の非常に急速な軍拡から発生したものであり、中国が持つ巨大な潜在力があらゆる方面でパワーバランスを乱しているから起こっているのだ。

国家が将来身につけるパワーというのは、お金の場合と同じで、割り引いて見積もられることはなく、逆に割り増しされて注目を浴びるものだ。

それゆえに、中国の軍拡そのものが、近隣諸国の独立にとっての脅威となるのだ

 これはベトナムについても(とくに脅威を感じているために)当てはまる。世論でも政府の公式見解でも、ベトナムが中国に従属していた時代の印象は良好なものではない。これは実際に(第二次大戦中のそれほどでもない)日本のイメージや、(朝鮮戦争時のかなり悪い)韓国のイメージのほうがはるかにマシなのだ。

逆にベトナム人の「国家」としてのアイデンティティを形成したものは、中国の侵略への抵抗だった。

表面的には国際協調主義を標榜していたベトナム共産党が、一九七五年に南ベトナムを掌握した時にすぐさまできる限り多くのホア族(中国系ベトナム人)を(物理的に国境の外まで追い出すか、難民ボートに乗せたりして)国外へ追放した理由はここにある。

確実に言えるのは、ベトナム人の漢民族とその国にたいする一般的な態度は、中国を中心とした「天下」システムとは相容れないものであり、諦めてそれに従うことは決してないということだ。

文化的な複雑さは置いておくとしても、西沙諸島と南沙諸島は、とにかく彼らにとって見過ごすことのできるような小さな問題では決してない。これは独島/竹島などの例と似ている。

両諸島は数百の島や岩礁、暗礁から構成されており、合計約六四万八〇〇〇平方マイルにのぼる排他的経済水域(EEZ)の主張が両国間でなされているのだ。

ベトナムの中国への抵抗の手段の一つは、今でも自国の軍事力である。ベトナム軍は深刻な装備技術面での遅れに苦しんでいるが、戦闘意欲と基礎的な能力は欠いていない。

しかし一九七九年と全く同じ形で中国と対決することになれば、ベトナムには大国の同盟国が必要となる。ベトナムは米国をその大国と見なしているようであり、おそらくインドや日本も当てにしているようだ。

ベトナムは何の迷いもなく先手をとっている。同盟結成というのは中国の拡張主義から自然発生したものだが、それでもそれを公式化する必要があるため、ベトナムは二〇一〇年にASEANの議長国になったことを利用しつつ、多国間交渉のフォーラムを形成することによって、海洋紛争を「国際問題化」した。彼らの狙いは、明らかに中国を多国間交渉の場に追い込むことだった。

本来のアメリカの方針は、南沙諸島の領有を主張する全ての関係国、つまりブルネイや中国、インドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾、そしてベトナムに対して、受動的な「中立的立場を取る」というものだった。

二〇一〇年冒頭においても、アメリカのその姿勢に変化はなかったため、ベトナムは自分たちが守っていた原則――「透明性の原則」(暗礁や岩礁への施設の突然の設置は行わない)や「法の支配」、そして「航海自由の原則」――をアメリカに同意するかどうかを確認することしかできなかった。

しかしベトナム外交は、かつての捕虜であったジョン・マケイン(John S. McCain)上院議員に始まる米国の友人と、オーストラリアからの助力を得た結果、アメリカの政策を変えることに成功した。

もしかすると、この変化は中国の軍拡の意図せぬ結果だったのかもしれない。二〇一〇年七月にハノイで開催されたASEANの地域フォーラム外相会議では、当時のアメリカの国務長官であったヒラリー・クリントン(Hillary R. Clinton)が、「航行の自由」はアメリカの「国益」だと繰り返し主張しており、いかなる国の武力行使および行使の威嚇にも反対すると言ったのだ。

もちろんこの二つの主張はアメリカの新たな姿勢を表明したものではなかった。ところがその後に、彼女は「南シナ海の海域についての正統的な主張は、領土の地勢についての正統的な主張によったものでなければならない」とも述べたのだ。これは新たなアメリカの新しい姿勢の表明であり、中国の南シナ海全域への主張を否定して、ベトナムの主張を支持するものだった。

中国外交部部長の楊潔篪(ようけっち)からは即座に(伝えられるところでは)怒りを含んだ反応があったという。

彼はこの問題を会議で取り上げた参加国全てを非難し、全海域は海南省の一部であり、中国の領海以外の何物でもないと主張した。この発言は、外交部部長による、断固かつ申し分のない民族主義者(左派)的な主張であった。

中国の田舎育ちの民族主義者たちから見れば、楊潔篪は極端な国際主義者と言ってもおかしくないような人物であり、彼はたしかにロンドンとワシントンで長年暮らした経験を持っているのだが、この時の彼の答えは「全てはわが国のものであり、話し合う余地はない」であった。

ところがそれから五ヶ月もしない二〇一〇年十二月にインドネシアで開かれたASEANの会合では、中国の代表はベトナムと米国が呼びかけた通りの多国間交渉の開始に合意している。この交渉は、少なくとも多国間の「行動規範」の策定を目的としたものだった。

中国の変心の原因としては、いくつかの理由を挙げることができる。

考えられる理由の一つとしては、この後退は、二〇〇八年以降のやり過ぎた傲慢さからの全般的な後退の一部だというものであり、これは中国共産党の上層部からの命令だという。

この全般的な後退は、戴秉国の長文の論説で説明された、正統性のあるものだとされている。この論説の題名は「あくまでも平和的発展の道を歩もう」(Jianchi zou heping fazhan zhi lu:堅持走和平発展道路)であり、ASEAN会合の直前の二〇一〇年十二月六日に発表されたものだ。

二番目に考えられる理由は、そもそも中国の主張が国際社会から受け入れられないからだ。

なぜなら南沙諸島は中国からあまりにも距離が離れているのにたいして、領有を主張している他国の海岸からの距離のほうがはるかに近いのだ(ただし台湾は明らかな例外だ)。地図を見てみると中国の主張にはかなり無理があり、「大昔、名もなき漁師がこの群島を訪れた」という話を持ち出してきても、他国から嘲笑を買うだけだ。

考えられる三番目の理由は、「中国は元々妥協の余地のない態度を取っていたが、そのために紛争が反中同盟を形成する非常に効果的な仕組みになってしまった」というものだ。その証拠に、突飛な行動を取るフィリピンと、常に扱いが難しかったマレーシア政府は、この紛争のお陰で反中同盟の方に囲い込まれてしまったからだ。

四番目の可能性は、国務長官のヒラリー・クリントン(Hillary. R. Clinton)の説得が非常にうまかったか、国防長官のロバート・ゲイツ(Robert M. Gates)の説得が非常にうまかったというものだ。

というのも、ゲイツ長官は同じ台詞を二〇一〇年十月にハノイで開催されたASEAN拡大国防相会議の席で述べているからだ。

この拡大会議は「ADMM+8」と呼ばれ、ベトナムとシンガポールによる提案を五月一〇〜一一日のハノイでの会合で受け入れて制定されたものだ。ハノイでの会合は、元来のADMM+6というASEAN参加国とパートナー国(中国、インド、日本、オーストラリア、ニュージーランド、韓国)によるものだった。この六ヵ国にさらにロシア連邦と米国が加えられたものが「ADMM+8」である。

この会議で米ロという二つの大国を参加させた目的は、公式には「地域協力圏としてのASEANの正統性と、米ロの東アジアへの関与を強化することにある」と説明されている。

しかし当然のように、現実の結果はこの会議における中国の発言権の弱体化であった。それまで中国は、この会議における唯一の大国であった。これは、中国の軍拡が必然的に生み出したもう一つの結果である(ADMMパートナーの八ヵ国から一ヵ国[例:中国]を減らせば、あっというまに集団安全保障会議になる。そうした会議の体制をそもそもベトナムが望んでいたという可能性はあるのだ)。

しかし最も可能性の高い理由は「南沙諸島の領有を主張する国家の中でも、ベトナムが飛び抜けて活発だった」というものだ。そして紛争にたいする中国の非妥協的な態度が、米国とベトナムの再接近をもたらしたといえる。

米国とベトナムの関係は外交上の協力から出発したのだが、これは暗黙の軍事同盟にもなりつつある。そして、この同盟関係は極めて効果的なものになりうるのだ。

もちろんこの同盟は、一九九五年に復活したアメリカとベトナムの外交関係の「当前の結果」というわけではない。

この関係は中国が「主導」したようなものである。もちろんこの同盟が北京で計画されたものでないことは明らかだが、それでもこのおかげで、ベトナムと米国の関係はより密接なものになったのだ


今日の横浜北部はとくに午後よく晴れました。

とうとう中国とベトナムの船が南シナ海で衝突しました。その背景の一端を知るために、とりあえず拙訳ルトワックの『自滅する中国』から参考になりそうな部分を抜き出しておきます。

下の引用は第15章からです。

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すでに述べたように、中国の近隣諸国との問題は、(中国自身が経験した可能性のある)傲慢な発言や差し出がましい行為だけが原因ではないし、未解決の領土紛争に限られるものでもない。

このような問題は、むしろ中国の非常に急速な軍拡から発生したものであり、中国が持つ巨大な潜在力があらゆる方面でパワーバランスを乱しているから起こっているのだ。

国家が将来身につけるパワーというのは、お金の場合と同じで、割り引いて見積もられることはなく、逆に割り増しされて注目を浴びるものだ。

それゆえに、中国の軍拡そのものが、近隣諸国の独立にとっての脅威となるのだ

 これはベトナムについても(とくに脅威を感じているために)当てはまる。世論でも政府の公式見解でも、ベトナムが中国に従属していた時代の印象は良好なものではない。これは実際に(第二次大戦中のそれほどでもない)日本のイメージや、(朝鮮戦争時のかなり悪い)韓国のイメージのほうがはるかにマシなのだ。

逆にベトナム人の「国家」としてのアイデンティティを形成したものは、中国の侵略への抵抗だった。

表面的には国際協調主義を標榜していたベトナム共産党が、一九七五年に南ベトナムを掌握した時にすぐさまできる限り多くのホア族(中国系ベトナム人)を(物理的に国境の外まで追い出すか、難民ボートに乗せたりして)国外へ追放した理由はここにある。

確実に言えるのは、ベトナム人の漢民族とその国にたいする一般的な態度は、中国を中心とした「天下」システムとは相容れないものであり、諦めてそれに従うことは決してないということだ。

文化的な複雑さは置いておくとしても、西沙諸島と南沙諸島は、とにかく彼らにとって見過ごすことのできるような小さな問題では決してない。これは独島/竹島などの例と似ている。

両諸島は数百の島や岩礁、暗礁から構成されており、合計約六四万八〇〇〇平方マイルにのぼる排他的経済水域(EEZ)の主張が両国間でなされているのだ。

ベトナムの中国への抵抗の手段の一つは、今でも自国の軍事力である。ベトナム軍は深刻な装備技術面での遅れに苦しんでいるが、戦闘意欲と基礎的な能力は欠いていない。

しかし一九七九年と全く同じ形で中国と対決することになれば、ベトナムには大国の同盟国が必要となる。ベトナムは米国をその大国と見なしているようであり、おそらくインドや日本も当てにしているようだ。

ベトナムは何の迷いもなく先手をとっている。同盟結成というのは中国の拡張主義から自然発生したものだが、それでもそれを公式化する必要があるため、ベトナムは二〇一〇年にASEANの議長国になったことを利用しつつ、多国間交渉のフォーラムを形成することによって、海洋紛争を「国際問題化」した。彼らの狙いは、明らかに中国を多国間交渉の場に追い込むことだった。

本来のアメリカの方針は、南沙諸島の領有を主張する全ての関係国、つまりブルネイや中国、インドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾、そしてベトナムに対して、受動的な「中立的立場を取る」というものだった。

二〇一〇年冒頭においても、アメリカのその姿勢に変化はなかったため、ベトナムは自分たちが守っていた原則――「透明性の原則」(暗礁や岩礁への施設の突然の設置は行わない)や「法の支配」、そして「航海自由の原則」――をアメリカに同意するかどうかを確認することしかできなかった。

しかしベトナム外交は、かつての捕虜であったジョン・マケイン(John S. McCain)上院議員に始まる米国の友人と、オーストラリアからの助力を得た結果、アメリカの政策を変えることに成功した。

もしかすると、この変化は中国の軍拡の意図せぬ結果だったのかもしれない。二〇一〇年七月にハノイで開催されたASEANの地域フォーラム外相会議では、当時のアメリカの国務長官であったヒラリー・クリントン(Hillary R. Clinton)が、「航行の自由」はアメリカの「国益」だと繰り返し主張しており、いかなる国の武力行使および行使の威嚇にも反対すると言ったのだ。

もちろんこの二つの主張はアメリカの新たな姿勢を表明したものではなかった。ところがその後に、彼女は「南シナ海の海域についての正統的な主張は、領土の地勢についての正統的な主張によったものでなければならない」とも述べたのだ。これは新たなアメリカの新しい姿勢の表明であり、中国の南シナ海全域への主張を否定して、ベトナムの主張を支持するものだった。

中国外交部部長の楊潔篪(ようけっち)からは即座に(伝えられるところでは)怒りを含んだ反応があったという。

彼はこの問題を会議で取り上げた参加国全てを非難し、全海域は海南省の一部であり、中国の領海以外の何物でもないと主張した。この発言は、外交部部長による、断固かつ申し分のない民族主義者(左派)的な主張であった。

中国の田舎育ちの民族主義者たちから見れば、楊潔篪は極端な国際主義者と言ってもおかしくないような人物であり、彼はたしかにロンドンとワシントンで長年暮らした経験を持っているのだが、この時の彼の答えは「全てはわが国のものであり、話し合う余地はない」であった。

ところがそれから五ヶ月もしない二〇一〇年十二月にインドネシアで開かれたASEANの会合では、中国の代表はベトナムと米国が呼びかけた通りの多国間交渉の開始に合意している。この交渉は、少なくとも多国間の「行動規範」の策定を目的としたものだった。

中国の変心の原因としては、いくつかの理由を挙げることができる。

考えられる理由の一つとしては、この後退は、二〇〇八年以降のやり過ぎた傲慢さからの全般的な後退の一部だというものであり、これは中国共産党の上層部からの命令だという。

この全般的な後退は、戴秉国の長文の論説で説明された、正統性のあるものだとされている。この論説の題名は「あくまでも平和的発展の道を歩もう」(Jianchi zou heping fazhan zhi lu:堅持走和平発展道路)であり、ASEAN会合の直前の二〇一〇年十二月六日に発表されたものだ。

二番目に考えられる理由は、そもそも中国の主張が国際社会から受け入れられないからだ。

なぜなら南沙諸島は中国からあまりにも距離が離れているのにたいして、領有を主張している他国の海岸からの距離のほうがはるかに近いのだ(ただし台湾は明らかな例外だ)。地図を見てみると中国の主張にはかなり無理があり、「大昔、名もなき漁師がこの群島を訪れた」という話を持ち出してきても、他国から嘲笑を買うだけだ。

考えられる三番目の理由は、「中国は元々妥協の余地のない態度を取っていたが、そのために紛争が反中同盟を形成する非常に効果的な仕組みになってしまった」というものだ。その証拠に、突飛な行動を取るフィリピンと、常に扱いが難しかったマレーシア政府は、この紛争のお陰で反中同盟の方に囲い込まれてしまったからだ。

四番目の可能性は、国務長官のヒラリー・クリントン(Hillary. R. Clinton)の説得が非常にうまかったか、国防長官のロバート・ゲイツ(Robert M. Gates)の説得が非常にうまかったというものだ。

というのも、ゲイツ長官は同じ台詞を二〇一〇年十月にハノイで開催されたASEAN拡大国防相会議の席で述べているからだ。

この拡大会議は「ADMM+8」と呼ばれ、ベトナムとシンガポールによる提案を五月一〇〜一一日のハノイでの会合で受け入れて制定されたものだ。ハノイでの会合は、元来のADMM+6というASEAN参加国とパートナー国(中国、インド、日本、オーストラリア、ニュージーランド、韓国)によるものだった。この六ヵ国にさらにロシア連邦と米国が加えられたものが「ADMM+8」である。

この会議で米ロという二つの大国を参加させた目的は、公式には「地域協力圏としてのASEANの正統性と、米ロの東アジアへの関与を強化することにある」と説明されている。

しかし当然のように、現実の結果はこの会議における中国の発言権の弱体化であった。それまで中国は、この会議における唯一の大国であった。これは、中国の軍拡が必然的に生み出したもう一つの結果である(ADMMパートナーの八ヵ国から一ヵ国[例:中国]を減らせば、あっというまに集団安全保障会議になる。そうした会議の体制をそもそもベトナムが望んでいたという可能性はあるのだ)。

しかし最も可能性の高い理由は「南沙諸島の領有を主張する国家の中でも、ベトナムが飛び抜けて活発だった」というものだ。そして紛争にたいする中国の非妥協的な態度が、米国とベトナムの再接近をもたらしたといえる。

米国とベトナムの関係は外交上の協力から出発したのだが、これは暗黙の軍事同盟にもなりつつある。そして、この同盟関係は極めて効果的なものになりうるのだ。

もちろんこの同盟は、一九九五年に復活したアメリカとベトナムの外交関係の「当前の結果」というわけではない。

この関係は中国が「主導」したようなものである。もちろんこの同盟が北京で計画されたものでないことは明らかだが、それでもこのおかげで、ベトナムと米国の関係はより密接なものになったのだ
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